大判例

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東京地方裁判所 昭和43年(ワ)427号 判決 1974年5月20日

原告 竹内政 外五名

被告 国

訴訟代理人 大内俊身 外四名

主文

被告は、原告竹内政に対し五〇万円、その余の原告に対し各一三万円及び右各金員に対する昭和四二年一月一九日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

原告らのその余の請求を棄却する。

訴訟費用はこれを三分し、その一を原告らの負担とし、その余を被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判<省略>

第二原告らの請求の原因

一  原告政は、亡竹内景助(大正一〇年二月一日生、死亡当時四五才、以下「亡景助」という。)の妻、その余の原告は、いずれも亡景助の子である。

二  亡景助は、いわゆる三鷹事件(電車顛覆致死等被告事件)の被告人として、東京高等裁判所において死刑の言渡しを受け、昭和三〇年一二月二四日右裁判が確定し、東京拘置所(以下「拘置所」という。)に拘禁されていた(なお、亡景助は、昭和二四年八月一日逮捕されて以来身柄を拘置されていた。)が、昭和四二年一月一八日東京都豊島区東池袋三丁目一番一号の拘置所内において脳腫瘍(大脳左側頭葉に発生した神経膠芽腫)により死亡した。

三、四、五、六<省略>

第三被告の答弁及び主張<省略>

第四被告の主張に対する原告らの認否及び反論<省略>

第五証拠関係<省略>

理由

一  原告らの地位及び亡景助の死亡について

請求の原因一及び二記載の事実は当事者間に争いがなく<証拠省略>によれば、昭和四二年一月一八日医師奥平雅彦による亡景助の解剖の結果、脳の所見は次のとおりであつたことが認められる。

「(イ) 大脳左側頭葉に局在する境界不明瞭な超鶏卵大の、中心部の広汎な壊死と多発性嚢胞形成を示す、神経膠芽腫(グリオプラストーム)

(ロ) 上記腫瘍の左側頭葉部の髄膜及び脳硬膜えの浸潤

(ハ) 上記腫瘍に近接した左側頭葉、基底神経核領域ならびに中脳、橋脳、小脳における二次性循環障害性出血を伴なう広汎な乏血性ならびに水腫性壊死

(ニ) 高度の脳腫脹による左鈎回及び帯回ヘルニア」

二  脳腫瘍の診断及び神経膠芽腫の治療について

<証拠省略>を総合すれば、次のとおり認められ、この認定を覆すに足りる的確な証拠はない。

1  脳腫瘍の診断

(1)  脳腫瘍とは、頭蓋の中に発生するあらゆる新生物及びその他の占拠性病変の総称であり、そのうち脳実質(神経膠組織)から発生する腫瘍が神経膠腫(グリオーム)である。神経膠芽腫(グリオブラストーム)は神経膠腫中最も悪性なものの一つである。脳腫瘍は、全剖検例の二パーセント前後に見られ、まれな疾患ではない。神経膠芽腫は殊に中年の男子に好発する。

(2)  脳腫瘍の症状は、大きく局在症状と頭蓋内圧亢進症状に分けられる。

局在症状は、腫瘍による脳実質の破壊、圧迫などによる限局性の脱落症状あるいは刺激症状であつて、腫瘍の局在により多種多様の神経症状、精神症状等を呈する。左側頭葉腫瘍に見られる局在症状の一つとして失語症が指摘されている。

頭蓋内圧亢進症状は、腫瘍による髄液の流通障害、血管の圧迫、脳浮腫などによつて起こる脳腫瘍に共通な症状である。そして、頭痛、嘔吐、うつ血乳頭の三つは、頭蓋内圧亢進症状の代表的なものとして常に挙げられ、この三症状があれば脳腫瘍を疑うべきであるということについては全く異論を見ない。

(イ) 頭痛

脳腫瘍患者の八〇ないし九〇パーセントは、その経過のいずれかの時期に頭痛を訴える。その性格としては、「初期には間歇的で、夜間、早朝に起こるが、腫瘍が大きくなると、持続性になる。」<証拠省略>、「刺すような裂けるような」痛みをもつたものが多く、「実際には頭痛がかなり強度であつても、一方で無関心状態が強くなると、あまり感じなくなることも一つの特色であろう。」<証拠省略>ともいわれ、「最近起こつてきた頭痛で、次第に増強するようなときには、脳腫瘍を念頭に入れておくべきである。」<証拠省略>、「長くつづいたり、繰り返す頭痛を、いつまでも単に頭痛として対症療法ばかりつづけると、間違いがおこりやすい。」<証拠省略>という警告もある。

(ロ) 嘔吐

脳腫瘍患者の五〇ないし九〇パーセントに嘔吐が見られる。一般には頭蓋内圧亢進における嘔吐の特徴として、悪心を伴わず、食事とは関係がないということが挙げられているが、実際の脳腫瘍患者の例ではむしろ悪心を伴うことも、飲食後嘔吐が生ずることも多い。

(ハ) うつ血乳頭

うつ血乳頭は、頭蓋内圧が亢進したときや視束の炎症の際に現われるもので、うつ血乳頭があれば直ちに脳腫瘍であるといえるわけではない。しかし、うつ血乳頭には、脳腫瘍患者の七〇ないし九〇パーセントに認められ、脳腫瘍の診断には極めて重要な価値をもつた他覚的所見であり、「脳腫瘍が疑われる場合眼底検査は絶対に欠かせない。」<証拠省略>といわれている。

(ニ) 精神障害について

「刺激に対して反応が遅くなつたり、注意集中が悪く、無関心状態、自発性の欠如、記憶障害などが目立つてくることは、脳腫瘍患者ではしばしば認められ」<証拠省略>、また、神経膠芽腫においては、「腫瘍の広がりが広範囲であるためか知能障害その他の精神症状がしばしばみられ」<証拠省略>る。

(3)  脳腫瘍を疑つたならば、更に精密な神経学的検査とともに補助診断法(レントゲン単純撮影、脳血管撮影、気脳撮影、脳室撮影などのレントゲン診断法、脳波検査、超音波による検査など)を合わせ行い、腫瘍の所在及び種類の確定診断又は他の疾病との鑑別を行うべきである。

(イ) 脳血管撮影

各種の補助診断法の中でも、脳血管撮影は比較的危険が少なく、得られる情報量は大であり、広く利用されている。特に腫瘍の種類の診断には有力な示唆を得られる。「神経膠芽腫であるということは大体九〇パーセントまでは脳血管撮影をやればわかる。」(鑑定人工藤達之の鑑定結果)

(ロ) 脳波検査

脳腫瘍に特有な脳波所見というものはない。しかし、その所見によつて脳障害の程度などを知り、間接的に腫瘍の所在や種類をある程度推測することはできる。

(ハ) 髄液検査

腰椎穿刺によつて行われるものが普通である。髄液の成分検査によつてある程度脳腫瘍診断上の資料を得る場合もあるが、頭蓋内圧が高度に亢進している場合、不用意に腰椎穿刺を行つて液を排除すると、脳嵌頓を誘発し、意識障害を来たし、呼吸麻痺により突然患者を死に至らしめることになるとして、一般にはかかる場合の腰椎穿刺は禁忌とされている。「補助診断法の手段の一つとして最も古くから知られている腰椎穿刺は、脳圧の高い脳腫瘍の場合、屡々致命的危険のあること、しかもそれによつて脳腫瘍診断上得る点は皆無かあるいは極めて少いことを銘記すべきである。」<証拠省略>という警告もある。

(4)  脳腫瘍の診断が確定した患者に対しては、経過の観察にいたずらに時日を失うことなく、早期に手術的治療を行うべきである。放射線療法が確実に効を奏する脳腫瘍の種類は極めて限られている。抗腫性物質による化学療法もまだ研究の域を出ていない。

2  神経膠芽腫の治療

神経膠芽腫は、大脳半球皮質下に発生し、迅速かつ浸潤性に発育し、周囲の組織との境界は極めて不明瞭である。そのため、この腫瘍の根治的手術(完全摘出)は不可能であるとされている。また、この腫瘍は放射線に感受性が低く、放射線療法として種々の方法が試みられているが、なお根治的効果は得難いとみられている。

しかし、頭蓋内圧の低下を目的とする減圧手術などにより患者の苦痛を除き、更にその生命を多少とも延長せしめることは可能である。

また、脳腫瘍に随半する脳浮腫(悪性の神経膠腫にはこの傾向が強い。)に対しては、ステロイドの大量注射(主にプレドニゾロンが用いられる。)がかなりの効果をもたらすことが知られていた。

以上のとおり認められる。

三  在監者に対する医療について

1  死刑の言渡しを受けた者はその執行に至るまで監獄に拘置される(刑法一一条二項)が、監獄法はその処遇を刑事被告人に準ずるものとしている(一条一項四号、九条)。かかる在監者に対する医療については、拘禁の性質上、在監者が疾病にかかつた場合にも、自ら外部の医師を選びその診療を受けることを制限することが許される(監獄法四二条)ことの反面として、拘禁を行う国並びに当該拘禁機関の職員においてその診療に万全の意を用い、遺憾のない医療行為を行うべきことは当然のことといわなければならない(同法四〇条)。そして、法は、死刑の言渡しを受けた者の医療についても、その拘禁が死刑執行を待つためのものであるという特殊な状況の下にあるからといつて、医学の水準を下回るような処遇を許容しているとは到底考えられないから、拘禁機関の行う診療行為が医学の水準に照らして不当又は不合理なものである場合には、当該診療行為には過誤が存在し、その処遇は違法というべきである。

なお、在監者の医療に関する国並びに当該拘禁機関の職員の行為が、国家賠償法一条にいう「国の公権力の行使に当る公務員が、その職務を行う」行為に当たることは明らかである。

2  そして、前記の二の(1) の(2) のとおり、医師としては、患者に頭痛、嘔吐、うつ血乳頭という頭蓋内圧亢進を示す三つの主要な症状が認められたときは、脳腫瘍の存在について疑いを抱き、更に精密な神経学的検査とともに補助診断法を用いて確定診断を行い、脳腫瘍と診断されたときには早期に手術等適応の治療を行うべきであり、拘置所にそのための設備や能力がなければ、速やかに他の専門医の援助を求め、又は医療刑務所若しくは他の病院等に患者の医療をゆだねる措置に出るべきである(監獄法四三条、同法施行規則一一七条)から、拘置所において、在監者の症状等から脳腫瘍について疑いを抱くべきであるのにこれを疑わず、又はその疑いを抱いても十分確定診断を尽くすことなく、慢然と時日を失つたために、手術等適応の治療の機会を逸したとすれば、かかる拘置所の医療には少なくとも過失が存在し、その処遇(作為又は不作為)は違法なものといわなければならない。

そこで、以下、亡景助に対する拘置所の医療について右の点を検討することにする。

四  亡景助の死亡に至る経緯について

<証拠省略>を総合すれば、次の事実を認めることができ(一部争いのない事実を含む)。この認定を覆すに足りる的確な証拠はない。

(1)  亡景助は、昭和二五年三月八日以来拘置所(収容された当時は葛飾区小菅にあつたが、その後豊島区東池袋に移転した。)に拘置されいた。

(2)  三、四月ころの亡景助の健康状態は、医師秋元寿恵夫によつて次のように診断されている。

(イ)  眼科

軽度の調節衰弱が認められる。眼底に特に異常は認められない。

(ロ)  内科

精神状態は、抑うつ、過敏、不安、緊張及び不適応の反応性を持ち、慢性無酸性萎縮性胃炎、軽度肺性心、自律神経失調症、起立性循環調節障害、副腎皮質機能低下症などの症状が認められる。特に胃腸系が悪い。

(ハ)  神経科

「寝つきが悪く、眠りが浅く、よく夢を見る」という軽度の睡眠障害が認められる。「耳鳴りがときにある」というが、心気症的なものであるどうかは不明である。いずれにしても、特に重篤な精神障害は認められない。

(3)一〇月から昭和四二年一月一八日までの期間中、拘置所においては、多田隅満(医務部長)、後藤陸郎(保健課長)、佐瀬民雄(医療第一課長)、大井清(医療第二課長)及び福田富夫(医療第一課)の各医師が医務部職員として在監者の医療に従事していた。

(4)  一〇月二一日、亡景助は、後藤医師に「最近注意の集中が悪くなり、人と話をしていても夢の中のような事が頭に浮かんでくることがある。本で読んだ事やいろいろな事が夢か現実かわからなくなる。」旨精神の異常を訴えたが、同医師は、「特に問題はない」と診ていた。

(5)  同月三一日、亡景助は、三対協の森山にも、「此頃、アタマの働きが、ときとして痴呆状態になることがあり、記憶力など前日のことがケロツと忘れることがあります。或は、人と面会していても、頭の中は夢とも現ともつかない鎌倉時代か平安時代の物語中の人物みたいなものや、その思弁が何人も現われて芝居しているのを見るようなことがあります。」と、手紙で訴えている。

(6)  一二月三日、亡景助は、突然頭痛と記憶力の低下を訴え、グレラン(鎮痛剤)及びコントール(精神安定剤)の投薬を受け、頭痛は治まつたかに見えたが、この間の記憶障害の進行は著しかつた。そして同月七日ころ以降、亡景助は、くり返し後頭部痛を訴え、しかも次第に激痛を訴えるようになつた。亡景助が拘置所に拘禁されて以来、かつてこのような頭痛を訴えたことはなかつた。

(7)  同月八日、亡景助は森山に手紙で次のように伝えている。

「……この七、八日間来、記憶力が、人の名でも地理名でも歴史学でも音楽名でも担当看守さんの名でも、どんどん忘れてしまつて、……凡そ二〇%以下みたいになつてしまつて、不妙で、奇怪でならないわびしさです。七日頃から、頭の後頭部がづきんづきんととても痛んで、昼は百回ずつも首を左右や後上部に力一ぱいふつて耐へしのびますが、夜九時頃か、十一時か十二時頃か、ぐつすりようく眠つてから、痛さで眼がさめて、いくらいじり、もんでも痛くてならんので、報知器を出して、担当看守さんにあづけてある「赤紙」入れの粉グスリを服します。すると二十分ぐらいで痛みが止り、よくねむれます。」

(8)  同月九日、後藤医師は、亡景助を診察し、その症状を、「顔貌やや確く緊張感強く一寸した記憶障害を気に病み、やや興奮を示す。病感を強める傾向にある。」と診て、「ノイローゼ状のやや昂進状態」と診断し、グレラン及びコントロールの投薬を続けた。

(9)  しかし、同月一一日早朝、亡景助は激しい頭痛に見舞われ、グレランを飲んでも痛みは治まらず、加えて悪心、嘔吐の症状を呈するようになつた。頭痛は、同日午後ノプロン(鎮痛剤)の注射によりようやく治まつた。なお、診療録には、同日「視力障害なし」との所見がある。

その後、同月一三日から一五日まで、亡景助は毎日夕方又は夜間に激しい頭痛に見舞われ、その都度ノブロンの注射を受けていた(一四日にはミグレニン(偏頭痛の鎮痛剤)及びコントールも投薬)。

(10)  同月一六日、亡景助は、大井医師に「頭痛を手術してもよいから何とか治して下さい。食べても嘔吐する。」旨訴えたが、同医師は、「非常に絶え間なくしやべり、どこが痛むかと思う位である。表現がややオーバーである。」と診て、コントミン(精神安定剤)及びヒベルナ(精神安定剤。偏頭痛止めが加わつている。)を投薬した。

ところで、このころ、亡景助の記憶障害の程度は外部の者にもわかるようになり、同日亡景助は救援会の坂本久夫の面会を受けたが、その翌日には前日の面会者がだれであつたか忘れていた(この事実は当事者間に争いがない。)。

(11)  前記大井医師の所見、処方にもかかわらず、前述のような亡景助の頭痛、嘔吐の症状はその後も続いた。同月一八日午後九時、一九日(時間不明)、二〇日午前八時五〇分いずれもノブロンの注射が行われている(一九日にはコントミン及びヒベルナも投薬された。)。

(12)  そして、同月二〇日、亡景助は、頭痛を訴えるとともに、「昨日来胆汁様のものを嘔吐している。」旨訴えたが、後藤医師は、「何れも神経性症状と思われる。」と診断して、ウインタミン(神経剤で疼痛、けいれんなどに使われる。)を注射し、「粥食、軟菜三日、横臥二日」を指示したに止まつた。

その後、同月二一日にはコントミン及びヒベルナが投薬され(このこから亡景助はこの薬が頭をおかしくするといつて飲むのをいやがるようになつた。)、翌二二日には、大井医師によつてビラビタール(鎮痛剤)、後藤医師によつてウインタミンがそれぞれ注射されている。

(13)  そして、同月二二日ころから、亡景助は「後頭部にかけ一日痛い」との持続的な頭痛を訴えるようになり、また、このころから、失語症状も見られるようになり、特に書字障害は日が経つにつれて著しくなつていつた。また、同月二三日面会に来た救援会の飯沼勝男に対し、亡景助は、頭が割れそうで、朝、昼もめしをくえず、口のきき方がわからなくて困ると訴えた。

右面会の後、飯沼は、拘置所の有田繁雄総務部長に面会し(この面会の事実は当事者間に争いがない。)、亡景助の症状の診断について尋ねるとともに、「病舎に移し、万全な診断と治療を行つてほしい。外部の設備の整つた病院に移すようにしてほしい。」など要望して帰つた。

(14)  同月二六日、原告政、救援会及び三対協の関係者、弁護士、住田医師らは、法務省に行き、初め刑事局の総務課長に会い、こもごも亡景助の症状を語り、年末・年始を控えている時期であるから「万全の処置」をとつてもらいたい旨を要望した。次いで、前記の者らは矯正局に回り、鈴木利雄総務課長、須田寿雄保安課長、由比貞勝医療分類課技官に面会し(この面会の事実は当事者間に争いがない。)、亡景助が頭部激痛、悪心、嘔吐の症状を示していることを述べ、「脳に器質的異常の疑いがあるから、十分な検査をしてほしい。外部から専門医を呼んで診断するなり、拘置所内の医療設備に限界があるときは、外部の病院に移すなどして適切な診断、治療をしてほしい。」旨陳情した。その際、由比技官は、拘置所に電話をして、亡景助が頭痛を訴えていることを確認したが、拘置所の医師は、「亡景助は運動もしているし、食事もとれているからそれほど心配はない。拘禁反応の疑いと診ている。」旨答えた。住田医師らは、「脳に異常の疑いがあるから十分な診断をするのが当然である」旨を強く主張し、くり返し、「万全の処置」をとることを要望した。

同日の後藤医師の診察の結果は、診療録に次のように記述されている。

「薬のんでから一切が忘れてしまつた。葉書一枚書けなくなつた。……頭痛が増々ひどくなつた。頭が変てこになつた。一昨日から少しずつ食える様になつた。.……今日で四日目です(粥食)。嘔吐(一)、悪心(一)。世の中の事、心の中の一切が思い出せない。……この精神状況に対する不安状が強い。瞳孔中等大、左右等。対光反射迅速。……他に神経異常なし。脈榑六四整。……膝蓋腱反射正常。病的反射(一)。歩行態度正常」

(15)  一二月二七日拘置所長は、東京医科歯科大学講師の所敬医師に依頼して亡景助の眼底検査を行つた(この事実は当事者間に争いがない。)。これは、前日までの経過から見て、前記のように住田医師らが法務省を訪れ、亡景助の症状を訴えて「万全の処置」をとることを要望したことによるものと推測される。

ところで、右眼底検査の結果、次のような眼底所見が見られた(左眼にうつ血乳頭が認められたことは当事者間に争いがない。)。

「右側 乳頭の陥凹存在するが境界は不明

左側 うつ血乳頭 乳頭の陥凹消失、周囲との境界不明、周囲に軽度の浮腫存在するが突出度は軽度で一~二ジオブトリー程度、図<省略>の如き出血存在する。静脈の怒張は強くない。」

右のうつ血乳頭の所見は、軽い初期のもので、発生後一週間以内のものと診られるが、所医師は、右所見などから、亡景助には脳腫瘍の疑いもあると考えて、頭部のレントゲン撮影及び脳波検査を示唆した。

(16)  更に、同日、拘置所長は、東京医科歯科大学教授の中田修医師に亡景助の症状につき診断を依頼した。同教授は、「症状は拘禁反応であるが精密検査(脳波、髄液等)の必要がある。」との所見を述べた。

ところで、同日住田医師が亡景助に面会した後、拘置所の門前で多田隈医師に出会い、「亡景助の症状は普通でないから十分な診断をするように是非早く手を打つてほしい、」旨話した際には、同医師は、「長い拘禁の中ではああいうことはよく起こるんだよ。」と答えていた。

なお、同日拘置所においては、亡景助の頭部のレントゲン単純撮影(正面、右・左側面)を行つたが、このレントゲン写真<証拠省略>は鮮明を欠き、それ自体からは脳腫瘍を暗示するような顕著な異常は見られない。<証拠省略>中、右写真にはトルコ鞍の破壊像が明らかに見られるとの供述部分は、<証拠省略>の結果に照らして採用できない。

(17)  同月二八日、福田医師が拘置所内の診察室において、亡景助に対し髄液検査を実施しようとしたが、亡景助は、「……薬を飲んだから……最低の記憶になりました。……何故無理に検査をしなくてはならないか……もう犯されている……今まで薬を飲まされて、……いやだというのに薬を飲まして……」などと述べて検査を受けようとしなかつたため、右検査は行うことができなかつた。なお、この際、同医師は、亡景助につき「表面的には奇妙性がなくて、失行、失認等は見られない」と診断している。そして、同日以後、一月一〇日まで、亡景助に対する医師の診察は全くなかつた。もつとも、このころから、亡景助は、前述のような激しい頭痛は自分の方からは訴えなくなつた(問われれば、「痛い」と答えている。)。

(18)  同月二九日原告政と同奏矢子が亡景助に面会したところ、亡景助は原告政を長女の同芳子と間違えるような状態であり、また、昭和四二年一月四日森山が亡景助に面会した際には、亡景助は森山の顔を忘れ、拘置所に入つて何年になるかも、どうして入つているかもはつきりしないような状態になつていた(右面会の事実及びその際亡景助が森山の顔を忘れ、入所の年月日を記憶していなかつたことは当事者間に争いがない。)。

(19)  昭和四二年一月四日、森山は、前記亡景助との面会の後、岡本煕拘置所長に面会し(この事実は当事者間に争いがない。)、治療の状況を尋ねたところ、同所長は、「暮に中田修教授に診断してもらつたが、やはり拘禁反応の疑いという診断で、拘置所の医師が診た診断と変わらない。亡景助の症状は大体拘禁反応と考えている。」旨述べ、更に、「亡景助は、暮の二八日が物品購入や手紙を差し出す締切りになることを承知してその手続をしているから、あるいは仮病かもしれない。」とも述べた。また、その際、同所長は、「精密検査の必要があつたが亡景助が拒否してできなかつた。八王子医療刑務所に移そうかということも検討している。」旨の話をした。しかし、同所長は、右移監について、森山が同月一一日法務省矯正局を訪ねて樋口幸吉医療分類課長にこれを要請するまで、法務省と何らの協議もしていなかつた。同課長が右移監の問題について拘置所と協議したのは一月一二日のことである。

なお、拘置所において、亡景助の家族や知人(三対協や救援会の関係者)に対し、具対的に検査の必要性を説明して亡景助が検査に応じるよう協力を要請したという事実を認めるに足りる証拠はない。

(20)  同月六日、飯沼は、亡景助に面会したが、亡景助は、飯沼のことも森山のことも全く忘れてしまつていた。飯沼は、面会後、有田総務部長に面会し、まだ亡景助を病舎にも移していないとして拘置所の態度を責めたが、同部長はさほど心配はないという応対を示した。

(21)  同月九日、救援会及び三対協の関係者らは、法務省矯正局に赴き、布施健局長、鈴木総務課長、須田保安課長、樋口医療分類課長に面会し(この事実は当事者間に争いがない。)、亡景助に対しどのような治療をしているかと尋ねた。これに対し、樋口課長は、「暮に偉い先生に診てもらつたけども、やはり拘禁反応という診断だ。」と強調し、「もつと正確な診断と治療をしてほしい。もし死ぬようなことがあつたらどうするか。」という抗議にも、「拘禁反応であれば、そのような心配はない。」と答えていた。

(22)  ところが、同月一三日午後一時の運動時間に、亡景助は「フラフラ」していたので、看守が居房に休ませたところ、午後三時ころ嘔吐があり、布団に寝かせたが、その後呼んでも返事をしなくなつた。そして、同日午後三時一五分、亡景助は、「昏睡―顔筋やや弛緩。刺激を与えるも反応なし。瞳孔両側散瞳、対光反射(-)。眼球運動(-)。両上肢弛緩。両下肢尖足状。足ちく搦(++)。病的反射(-)。脈拍四六整緊張良好」との症状を呈し(昏睡状態に陥つた事実は当事者間に争いがない。)、同日午後三時四〇分福田医師が診察し、「脳性昏睡(原因不明)」と診断した。その後、拘置所においては、亡景助を病舎に移し、午後四時ころ三対協に亡景助が倒れた旨を伝えた。

(23)  後記腰椎穿刺の直前、亡景助は、「両側睡毛反射(+)。左右角膜反射(+)。瞳孔散大円形、対光反射迅速しかし不十分。足ちく搦(++)。病的反射(-)。痛覚(-)→(+)。尚呼名、疼痛に対して対応的に両肢を動かしたり、左足の上に右足をのせたり、顔をそむけたりするようになつた。昏睡は漸次覚醒しているよう?」との症状を呈していた。

同日午後四時三〇分、福田医師らは、亡景助に対し腰椎穿刺(側臥位)を行い、髄液三CCを排除し、三六〇ミリメートル水柱あつた髄液圧を二九〇ミリメートル水柱まで下降させた(右腰椎穿刺を行つた事実は当事者間に争いがない。)。

(24)  そして、同日午後七時ころ、亡景助は窒息状態となり、人工蘇生器により酸素吸入を行つたところ、約五分で自発呼吸を開始し、その後、呼吸停止―蘇生器使用―自発呼吸という状態をくり返したが、同日午後一〇時ころ全く自発呼吸を停止するに至り、それ以後死亡に至るまで、蘇生器による強制呼吸が続けられた。

(25)  拘置所では、翌一四日午後二時二一分ころ東京大学脳外科佐野圭司教授の診察を仰ぎ、「左側頭葉の転移性脳腫瘍の疑い」との所見の下に治療法を指示され、その指示に従い、以後点滴、プレドニン注射等の処置を続けたが、同月一八日午前八時一〇分、亡景助は死亡した。

五  被告の責任

1  亡景助に対する医療上の過失について

(一)  前記四において認定したとおり、亡景助は、一二月三日急に頭痛を訴え始め、それ以来、記憶障害の進行とともに、くり返し頭痛を訴えるようになり、同月一一日ころからは激しい頭痛を訴え、それまでの鎮痛剤グレランでは痛みは治まらず、鎮痛剤ノブロンの注射で痛みを止めるようになつた。しかも、このころ亡景助は悪心、嘔吐の症状も呈するようになり、その後も、毎日のようにノブロン、鎮痛剤ミグレニン、精神安定剤たるコントミン、ヒベルナ等の投剤を続けたにもかかわらず、その症状は少しもよくならなかつた。

このような経過事実に<証拠省略>を合わせ考えると、医師としては、一二月二〇日過ぎころには、亡景助の持続する頭痛、嘔吐の症状等から頭蓋内の占拠性の疾患を疑つて眼底検査等による診断を進めるべき状況にあつたというべきであり、現に、前記四の(15)において認定したところからすれば、そのころ以降眼底検査を行つたならば、うつ血乳頭の所見が認められたはずである。しかるに、拘置所の医師は、亡景助の症状はいずれも神経症状に過ぎないとして、同月二七日まで眼底検査の必要性を認めなかつた(前記四の(14)及び(15))。

のみならず、前記二及び四において認定したところに<証拠省略>を総合すれば、一二月二七日には頭痛、嘔吐のほかにうつ血乳頭が見られたのであるから、これによつて前認定の亡景助の症状経過をみれば、これらの症状が頭蓋内圧の亢進を示すものであることの診断は容易にできる状況にあつたのであり、医師としては、遅くとも、同日うつ血乳頭が認められた時点以降、亡景助につき脳腫瘍の疑いを除外して考えることは許されず、速やかに適切な方法を選び確定診断を行うべきであつて、その方法が適切でさえあれば、さほどの日数を要せず神経膠芽腫の診断に到達したはずであり、それなりに亡景助に対し、可能な治療を施す機会も残されていたと認めるのが相当である(亡景助の「検査拒否」については、後記(三)のとおりである。)。

しかるに、拘置所においては、前記四の(15)以下において認定したとおり、一二月二七日眼底検査の結果に基づく所敬医師の指示事項のうちレントゲン単純撮影を行つたのみで、更に中田修教授の診断を仰ぎ(この段階で中田教授の診断を仰いだこと自体は、責めるべきことではないが)、同教授の前認定(四の(16)の所見のうち、「精密検査の必要がある。」との部分を無視して精密検査を実施せず、「症状は拘禁反応である」との、拘置所医師の見解に符合する診断部分のみにすがつて慢然と時日を送り、同日以後昭和四二年一月一三日午後三時一五分ころ亡景助が昏睡状態になるまで、これに対し何ら前認定のような適切な医療措置を講じなかつたのであつて、このような拘置所関係職員の亡景助に対する処置には、拘禁機関として当然在監者に施すべき医療上の注意義務を怠つた過失があるといわなければならない。

(二)  ところで、被告は、亡景助にはその主張のような拘禁神経症の症状が認められたから、その症状を拘禁反応と診断したとしても、右診断には過誤はない旨主張する(第三の二の1。)

しかし、本件においては、前記一のとおり、剖検の結果亡景助の脳腫瘍の所在や種類が明白であり前記二の1の(2) のとおり、脳腫瘍患者は、多種多様の神経症状や精神症状を呈することが広く知られているのであるから、当時亡景助が呈した諸症状は、右脳腫瘍の成育によるものと推認するほかはない。

のみならず、仮に、亡景助の症状中に拘禁反応に類似するものがあつたとしても、脳腫瘍など脳の器質的疾患は、早期にこれを発見し治療する必要があり、これを見のがすことによる結果の重大さにおいて拘禁反応の比ではないのであるから、医師としては、患者の症状等から、それが頭蓋内圧亢進症状とも判断される状況にあるときは、既にその段階で、予断にとらわれることなく脳腫瘍などの存在にも疑いの目を向け、その疑いを否定し去ることができない限りは、これに対する対策を怠るべきでないことはいうまでもない。まして、本件においては前記(一)のとおり、遅くとも一二月二七日には、うつ血乳頭の所見により亡景助の症状が容易に頭蓋内亢進症状と判断され得たのであるから、かかる事態に立ち至つたときには、先ず脳腫瘍などの疑いを抱き、早急に、これを否定しうるか否かの確定診断を尽くすべきであつたものといわなければならない。このような手段を尽くさずに、漫然、拘禁反応との診断を維持したことに診断上の過誤があつたことは明らかである。

被告の主張は到底採用することができない。

(三)  更に、被告は、亡景助が頑強に検査を拒否したから、髄液検査、脳血管撮影、気脳撮影などの検査方法を実施することは不可能であり、また、八王子医療刑務所への移監は、これを検討中に亡景助の病状が急変したため実現しなかつたものであるから、拘置所が亡景助に対する医療措置を怠つたということはない旨主張する(第三の三の3)。

一二月二八日亡景助が福田医師の髄液検査を拒んだことは、前記四の(17)において認定したとおりである。しかし、前記四の(13)から(21)までにおいて認定したとおり、拘置所においては、亡景助の症状を拘禁反応と診ていたところからすれば、その精神状態を全く正常なものとは見ていなかつたはずであり、それでなくとも、脳腫瘍など脳の器質的疾患は、早期の診断、治療が極めて重要であり、それゆえに、原告政らは、この点を心配して何回となく拘置所や法務省に的確な診断及び治療を要望していたのであるから、もし、拘置所において脳腫瘍の診断のため必要があると認めたのであれば、本人の検査拒否があつたとしても、家族等に検査の方法及びその必要性を具体的に説明して、協力を求める態度に出るべきであり、それによつて診断を進めることに格別の困難があつたとは認められない。

しかるに、拘置所においては、何らそのような措置もとらず、一二月二八日福田医師が亡景助につき、「表面的には奇妙性がなくて、失行、失認等は見られない」と簡単な診断を下し、それ以後、年末年始を経て一月一〇日まで亡景助の診察、看護を放置していたばかりか、八王子医療刑務所への移監の手続も積極的に推進した形跡は認められない。その経緯に鑑みれば、拘置所においては、拘禁反応であるとの予断に固執する余り、疑うべき脳腫瘍を疑わず、一応最も安易なレントゲン単純撮影と髄液検査を試みただけに止まり、医学の水準からみて当然尽くすべき真摯な医療の努力を怠つたといわざるを得ず、被告の主張は到底採用することができない。

(四)  なお、髄液検査については、前記二の1の(3) の(ハ)において認定したとおりであり、前記四の(22)から(25)までにおいて認定した事実に<証拠省略>を考え合わせると、拘置所医師が昭和四二年一月一三日に行つた髄液検査は、医療上適切なものであつたといえないうえ、これが亡景助の症状を更に悪化させた可能性を否定することはできない。したがつて、この点においても医療上過失があつたというべきである。

2  医療上の過失と損害との因果関係

前記四において認定した亡景助の死亡に至る経緯に前記二の2及び五の1並びに<証拠省略>を総合勘案すれば、もし、一二月二七日の時点で亡景助につき脳腫瘍を疑い、速やかに確定診断及び治療の措置をとつていたならば、摘出手術によりかえつて死期を早める危険性もないではないにしても、脳圧の亢進による亡景助の苦痛をいくぶんでも除くことができ、更に、いくばくかの延命の可能性も(神経膠芽腫は極めて悪性の腫瘍であつて、根治はまず不可能であり、延命の期間は、月あるいは日をもつて数える程度のものであつたとしても)あつたことは否定し得ないところと認められる。したがつて、亡景助の前記日時における死亡と前記医療上の過失との間には、相当因果関係があるといわなければならない。

3  以上のとおりであるから、被告は、国家賠償法一条により、前記被告公務員の違法行為に基づく亡景助及びその遺族たる原告らの後記六の損害を賠償する義務がある。

六  損害

1  亡景助の慰謝料

亡景助は、前記認定のとおり、昏睡に陥るまでその症状を単に心因性のものとして扱われ、拘置所の病舎にも移されず、無為に病状の悪化を待つほかなかつたのであつて、その肉体的、精神的苦痛は推察するに難くない。また、その係属につき当事者間に争いのない再審の請求及び処遇改善を求める行政訴訟並びに原告主張の恩赦の嘆願の帰すう如何については、当裁判所においてこれを断定するに足る資料はないが、亡景助がこれらの結果に期待するところがあつたことは、推認するに難くない。

そして、前記被告側の過失の態様、程度のほか、神経膠芽腫の性質上医学的にその余命には限界があつたこと及び亡景助の死刑確定因たる身分、その他諸般の事情を考慮すれば、亡景助の精神的苦痛に対する慰籍料は六〇万円をもつて相当とすると認められる。

2  そして、前記一のとおり、原告政は亡景助の妻であり、その余の原告らはいずれも亡景助の子であることは当事者間に争いがないから、亡景助の死亡により右損害賠償請求権のうち、原告政においてその三分の一である二〇万円、その余の原告らにはおいて各自その一五分の二である八万円の各損害賠償請求権を相続によつて取得した。

3  原告らの慰謝料

原告らは、夫又は父である亡景助を、被告公務員の医療上の過失により、尽くすべき医療方法も尽くされず失うに至つたことにより、精神的苦痛を味わつたことは明らかであり、これに対する慰謝料は、諸般の事情を考慮し、原告政については三〇万円、その余の原告らについては各五万円をもつて相当と認める。

七  結び

以上の次第であるから、被告は、原告政に対し五〇万円、その余の原告らに対し各一三万円及び右各金員に対する不法行為のあつた後である昭和四二年一月一九日から支払ずみに至るまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金を支払う義務がある。

したがつて、原告らの本訴請求は、それぞれ右の限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条、九三条を適用し、仮執行の宣言の申立てについてはその必要がないものと認めこれ却下することとして、主文のとおり判決する。

(裁判官 杉山克彦 加藤和夫 石川善則)

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